海のゴミの法則(道徳観と倫理観)
夜中に目が覚めた。
携帯で時間を確認すると、まだ3:15だ。
熱中症になりかける程の天候で、40℃近くをマークしていた。
たくさん汗をかき、水分をとった日で扇風機の風は生温く全身ビチョビチョだ。
ゆっくりとシーンと静まりかえったお風呂は
夜の海みたいで、落ち着いた。
その海での話をしたい。
朝一番の海に朝陽を浴びに行こうと息子を誘った。
8:00から部活があると言っていたが、5:30に家を出れば30分ほどで海岸に着く。
なぜ、海に行ったかというとそれは
息子と二人で話をしなければならない状況が起きていたからだ。
先日、息子が約束していたにも関わらず
それをまんまと破った。
そして、その重さに気づいていない。
最初はやってはいけないという行為も、
4回も繰り返すのだから、呆れてしまう。
お灸を据えるつもりで海へ来た。
二人で朝のコンビニでおにぎりやサンドイッチを買い海辺に流れ着いた木の台に座って
食べていた。
そこからは浜辺と先に見える海に浮かぶ小さな船しか無かった。
朝食を食べ終えて、わたしが海の方へ向かうとたくさんのゴミに溢れていた。
そう言えば、カラスが戯れていた。
カラスは人間の置いていったゴミに食べられる物が無いかと物色していた。
ペットボトルにプラスチック容器、目に映る物はすべて人工物だ。
流木や海藻は見慣れていた風景のはずが
圧倒的にリサイクルゴミだった。
「息子にも浜辺を見てきてごらん」
と促してみた。
「酷いね。これは。。。」
遠くから見たら、夏の海で終わっていた
朝陽を浴びる瞬間に、大量のゴミを見てしまったのだ。
「このゴミを二人で時間を決めて0.5~60分ぐらい掃除したらどのぐらい集められると思う?」
と聞いた。
すると、息子はこう答えた。
「それなら、30㌔はぐたらない。だって
こんなにたくさんあるんだから。」
息子の中には道徳観や倫理観が無い訳では無い。
特に虫や動物などの生き物は大切にする。
人に優しく、みんなが嫌がる仕事も引き受けて行動することができる。
しかし、この海を見るまでは破った約束事をそのままにすれば彼の人生に大きなキズを残し、ろくな大人にならないとまで考えていた。
これは、海のゴミと同じである。
一人一人が持ち帰り、海を汚さない意識をすれば少なくとも今よりキレイになる。
しかし、自分の出したゴミには責任を持たないというのが今の現状だ。
《我が子の行為はみすみす見逃してしまったり、通りすぎてしまえば小さな積み重ねで
たちまちゴミの山となってしまう。》
わたしは自分の道徳観にこの状況を当てはめてみた。
幼い頃から道徳観を重んじる厳しい家庭環境
で育った。
父の書棚にはたくさんの哲学の本が並んでいた。
父の職業は警察官で、わたしたち兄弟が不良にならないようにと母は常に目を配る。
初めてマニキュアを高校生の夏休みに塗ってみた。
すると、その爪を見て
「爪を染めれば次は髪を染めたくなる。」
なんと!まぁナンセンス。
その時のわたしは昭和一桁生まれの父の感覚が全く理解できなかった。
ある時、内容は忘れてしまったが
父の気に触れたことがあり、言い合いになった。
興奮した父は手に持っていたハサミの刃をわたしの方へ向けた。
道徳観を重んじる父の悲しい姿。
わたしはこの行為を一生忘れることはできない。
なぜなら、父の中には暴力に対する憎しみがあった。それを止めることができない衝動も同時に持っていたからだ。
わたしの中にも息子と同じような心理はある。
母のお財布から小銭を取ったことや
祖母がタンス預金していた封筒のお金を拝借したことがあるのだ。
息子を注意しながらも、自分の過去にしてきた過ちを振り返ることになったからだ。
海のゴミの法則。それは、小さなゴミも責任を持って出した人が拾い上げることだ。
息子の失態はわたしの責任にある。
そこに気づいた。
全て、わたしの育て方にある。
これは、自分を攻めているのではなく
今目の前に起きていることは、全て自分の問題として引き受けるということにした。
《海のゴミが多いのは、その風景を生み出してしまった自分に責任がある。》
と定義する。
これを息子と話をしてみる。
落ちている物がお金だったらどうだろう?
皆、争う様に拾いに来るのではないだろうか。。。
例えば、この海の産物を拾いあげて
新たな命を吹き込んで見たらどうだろう。
また、拾ったゴミがお金に変わったら
と仮定してみる。
社会の問題を解決しながら、応援してもらえる様なシステム化を考えてみる。
この夏の自由研究を一緒にやっている。
そして、海のゴミはお金の法則へと転換してみる。
今起きていることを解決させるには
同時に2つ以上のことに気づくことが
海のゴミの法則である。