chikyuwatomodachi’s diary

地球はともだちのお話

3.11あの日あなたは何をしていましたか?

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春が来ると、大きな窓越しに見た大きな桜の木を思い出す。

2011.3.11
東日本大震災

今まで経験したことが無いほどの大きな地震

友人の入院する病院の見舞いの帰り
空を見上げると、不思議な縞模様だ。

そうあの日、私は妊婦だった。
超高齢出産、41歳で第三子。

大きな揺れが始まる少し前にお腹の中で
ぐるぐると回っていた。

4ヶ月の赤ちゃんに胎動は感じないはず。
そんな事を考えながら車の運転中

何とも言えない気分になった瞬間
グラグラミシミシと音を立て
街中が揺れていた。

私は運転中の車を路肩に停めて
しばらく揺れが収まるのを待っていた。

胎動は静かになり、とにかく緊張したまま
安全な場所に避難しようと通り道に住む友人宅へ
立ち寄った。

しばらく落ち着いて
その日は保育園に息子を先にお迎えに行った。
小学校へ電話すると完全にパニック状態であった。


さて、そこから1ヶ月。
妊婦が被災地に行く訳にいかない。
しかし、何か協力できる事があるだろうと考えて
職場の商品を販売する特約店に声をかけ
新品同様の女性下着を集めて運ぶ事にした。

4月になり、福島県から埼玉県加須市
移住されてきた方々へ段ボール6箱分を届けに行った。
その日、お腹の中に何か違和感を感じていた。
トイレが近く、何度もトイレに行きたくなる。

車で移動する往復4時間の間考えてみたが、
思い当たる事はなかった。
翌日、余震は続いているが婦人科へ向かった。

「赤ちゃんの心音が聞こえないよ。今まで何やっていたの。あなたはお母さんでしょ!!」 
そう言われた瞬間、身体から血が引くのがわかった。
5ヶ月の赤ちゃんは既にお腹の中で息が止まっていたのだ。
医者にはコンコンと叱られていたが、耳に入ってかなかった、、、

どうしても、信じられず
もう1軒産婦人科へ行くと
女医さんが丁寧に説明してくれた。

即、入院となり
今後の予定が告げられた。
「今夜、赤ちゃんを産みましょう。
産むのは普通分娩と同じ方法です。帝王切開ではなく、産みます。その為に、少し処置が必要になります。」

処置室へ向う途中
府中総合病院の大きな窓越しに1本の桜
満開とも言える素晴らしいサクラ色だ。

真っ暗な中、硝子越しに見る桜は圧巻。
まるで、絵画でも見ている様だ。

苦しい処置を終えて、悲しい出産を終えて
部屋を一歩出た。
これを死産と言う。

出産を終えて、廊下を歩くと
そこには、満開だった桜の花びらが1枚も無く
ただ静かに桜の木がたたずむ。
ちょうど、役割を終えた姿で。

花びらの絨毯だけが、物悲しく見えたのだ。
まるで、自分の姿を表しているみたいに。

赤ちゃんは、戸籍には遺らない。 

しかし、男の子だったから、
春になると思い出す意味で
【萊〜らい〜】と名付けました。

あれから、9年。
育っていたら小学3年生かな。

もうすぐ春が来ますね。
悲しみが無いわけじゃないけれど
小さな赤ちゃんは次に向う道を教えてくれた。

産後は友人が家族を連れて車で迎えに来てくれたり、保育園の送迎に協力してくれたりと
頭が下がる事ばかりだった。

私は自分の悲しみに打ち勝つつもりで動きはじめた。保育園のママ友を中心に和太鼓チームを
作ったりした。
地震の不安より、助け合う仲間の絆を強くしていった。

その後、保護犬を飼うきっかけも、震災だった。
被災地から迷い犬が来てるかもと、譲渡会を見に行った。

また、仕事は障がい者の支援を行うNPOに所属したりと休む暇無く動き続けた。


震災が教えてくれた事を数えたらきりがないが
あの日、身近な命を失う瞬間を共に体感した。

いのちの時間は永遠ではない
それを教えてくれた。

生きてるときにできる事をする 
そう決めたのはあの日があったから。


『今ある命に光をあてなさい』

と私に届いたメッセージ。